広島原爆資料館海外の反応 [ものの見方について]

この資料館の前で、日本人の反応はだいたい同じように見えます。
「原爆だめだー」「原爆は悪」「これを世の中からなくそう」みたいな日本人が多いように思います。

これらの感想を悪いとは言いません。もちろん反論はしません。
でも、根拠もあるでしょうが、
「決めつけ」
があるように感じます。絶対悪ということです。
そういう考え方をして、事態を見たがらない。
悲惨な写真が最近になって続々と出てきてあっと驚きますが、目を背けます。
見たら目に悪い、なぜなら悪だから。そういう感覚です。
だとすれば、この資料館に入っても入らなくても同じです。

これは原子力発電でも同じです。
放射線は悪いものだ。この世からなくすべきだ。
原子力発電なんかとんでもない。命をかけてなくしたい。
これも、絶対悪がそこにあると思うから言うことです。
原子力発電で電気が生産され、それが経済にどうかかわっているかという議論聞きたくもない。
なぜなら絶対悪だからそれのやることはすべてだめだ。

これは日本人の意識の持ち方の典型的パタンのようです。

聞く耳持ちたくない人に聞こえないことがあります。

アメリカがあの原爆を平和実現のために行使した正義の活動だと思っていることです。
あのまま日本を放置したら平和には障害だったと信じているひとが結構います。
手段としての原爆の良しあしよりも平和が大事だった、と。
そして、実際のところはスターリンが黙ることをしないと、あの共産国家が何をするかわからないということもあったわけで、結局平和のための選択だったと。

他の国はどう思っているか。
聞きまわったわけではないので、単純に結論づけませんが、泥沼化していた太平洋戦争を終結させる手段として完全に正しいとは言わないけど間違ってはいなかったのではないか、と。

実質、イスラエルのガザに対する行動を見たり、ブッシュ時代のアメリカが中東でやったことを知っていると、この感覚は全然変わっていません。
正義のためにはなんでもあり、という短絡です。「そもそも正義とはなんぞや」は踏みにじられます。

この前提でいるひとたちが外国にたくさんいます。

ただ、前提は前提として目の前にあるものを正しく理解しようという努力は、どうも日本人より優っているひとをたくさん見ます。

その人たちが原爆資料館を訪問した場合、反応は日本人とは違います。あ、外国人なんだ、と感じます。
日本人は、「絶対の悪の記録」としてみます。戦争が悪いんだ、すべてが間違いだ、とひとつらなりのこととしてみます。
というより、その判断のもとに、見ることを拒否しています、というべきでしょう。

外国人はどうも「このやりかたはやってはいけなかった」とみる人が多いようです。

例をひとつだけ。中国人でここを訪問した人の話でご紹介します。
中国の某都市で一晩飲み明かしてしましました。

かれは明確に「あれはやるべきでなかった」と言いました。

人間の影が壁に焼き付いていること、形も残らない消滅をした人のこと、はちきれるような死に方をした人、内臓を放出しての死体、を彼は正確に覚えていて復習しました。
それは事実としてたんたんと話し、自分が何と何を見て判断したかを明確にした上、あれをやってはいけなかった、と結論づけました。
あれをやった国が悪だとも言わないし、原爆を撲滅しようとも言いませんでした。

日本軍を滅ぼす、というのは目的としては、いいのです。しかし原爆でやるべきではなかったのです。そう考えるようです。

発明してしまった以上、ないことにはもうできません。
ある前提でどうつきあっていくべきか、が求められます。そういう考え方です。

こういうのは見習うべきではないかと思います。


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