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FLASHが有害図書に指定、これは景気浮揚策か [出版]
雑誌FLASHが東京都から有害図書に指定された、理由は折りこみの過去のAVのアンソロジーDVDだ、と言う話です。
反論もしませんし、同調もしません。今の時代にその話、おかしいと思いませんか。
表現の自由とかそういう話ではありません。
FLASHというのは、ゴシップを伝えるという媒体ですし、有害図書といえばもともとそういう言いがかりをつけられる可能性はある存在でした
ときに数十年前以前だったら「わいせつ」という概念は割合明確にありました。でも仮想概念です。
ヌード写真でちょっと何かが見えたとかそれで騒ぎになったころはあって、観光地にいくと、何か人生踏み外したようなおじさんが封筒に入った写真をこっそり売りつけていたものです。
それを買ったやつに見せてもらいたくて修学旅行の男子学生たちがこそこそと相談ごとをしているとか。
隠すからそれを見ようとすると背徳的な気分になり、そこに「わいせつ」というイメージがつきまとったわけです。
ビニール本というものがあって、やがて自販機本になったのですけど、ポイントは下着ごしに透けて見えると言う点でした。そのために下着が普通2枚重ねになっているところを外してはいたりして写したのです。
ところが、何のはずみかヘアヌードというものが堂々と出てくるようになって、ごく普通のものになった。
もちろん性器自体はもともと男女とも見るに及ぶ美的なものではないから出してませんけど。
ヌーヴォーロマンの「嫉妬」で有名なアラン・ロブ=グリエが、制作した映画がわいせつだから日本に来いというので来日した。
ジャンヌ・モローとかあちらの大物女優たちが堂々と体広げて芝居をした「ニューヨーク革命計画」とかそういう映画です。前衛映画の極地です。
この人が裁判所だったか警察署だったかに行くために電車に乗った。
周囲に座った人たちが週刊誌を広げてみている。
「あれ、おれ冗談で呼ばれたかな」と思ったと言っています。
週刊誌をひらいたすぐのところのグラヴィア写真が陰毛丸出しだったからです。
ご存じの人はあると思いますが、あちらで一般的な雑誌がそういうものを掲載することはまずない。
まして子供が見るかもしれないところには絶対に掲載しません。
こんなものを電車の中で、一目もはばからず見るんだあ、とあきれた。
何でフランスからわざわざ呼ばれたかな、と思ったようです。
結局一部カットとかマスクをかけるという打ち合わせをやったけど、この国はどういう国なんだろう、と悩んだようですね。
そういう国にあって、いまさら有害図書指定なんて何だろうと思いますね。
変な倫理観や正義感にとりつかれて、原爆の被災児童を描いた漫画を図書館から追放、だとか平気でやる人間は確かにいますが。
わいせつ系は、人間の存在や価値に切り込めるように見えますが、作者がどう思っても失敗します。
バタイユの小説で騒がれたものがありましたけど、結局性器や行為の用語を書き散らすだけであって、人間の根源に届く話に聞こえません。
心理分析はかなりやろうとしていますけど、不器用であって、読者が驚く前提で語っているだけです。
初めて読めば、その表現でびっくりしてあっといいますけど、考えたら中身ないのです。
普段日常で発言しない類の用語は、珍しいからびっくりします。それだけです。
永井荷風が書いてふすまの裏張りにしたというものがありましたけど、あれも、そういうこそこそした隠し方をしたから話題になるのであって、中身は別に珍しくもないことが美文で書かれているだけでした。
それを公表した作家が告発されて裁判所で議論になったというのは、結局、大したことのない作品に価値を付加したという話になります。
何しろ、丸谷才一だとか井上ひさしだとか吉行淳之介とか大物が次々に参考人として出てきた、顔見世興行みたいになったのです。
さてFLASHの有害図書指定ですけど、うまい顧客戦略ではないかと思いました。
これは危険だから見るな、というと中身はどうあれ、見たくなりますからね。
単純に雑誌FLASHというものがあることは知っていますが、買ってまで見ることはしない人多いはずです。
読み捨てが棚にあったらちょっと覗いて、また捨てるということをするのが普通ではないでしょうか。
でも、別に発禁ではないけど、危険物青少年有害物だといわれたらそれは宣伝です。
当局が危険視しているものは見たくなります。FLASH側では需要喚起です。
そのために1月以上待ってから宣言のようですけど、週刊誌についていた付録ではなく、増刊号です。
増刷は可能です。出版社はそういう動きをするでしょうね。
あとは古書店が、問い合わせによってものを高く売れるでしょう。
東京都だからどこまで考えているかわかりませんけど、景気浮揚策にはなるんではないでしょうか。
そういうことに今後も使われるのではないでしょうか。
逆ザヤの薬とはなにか [医学報道]
逆ザヤということばが薬に使われる場合を説明します。
売値が仕入れ値よりたかいものを順ザヤと言います。
普通そうでないと商売はなりたちませんね。
ところが、売値のほうが仕入れ値より安くなることが逆ザヤです。
これは、売れ残りになる商品の不良在庫を減らすために行うこともあるでしょう。
メーカーが希望小売価格を変えたために、店が損するなんて言うこともあります。
とはいえ、普通の商売で順ザヤだ逆ザヤだとはあまり言いません。
この話を商品の先物取引に適用するのが普通やることです。
今買って後で値が上がることを期待するのが先物市場ですね。
だから、あとからの値段のほうが上がることを順ザヤといいます。
あとで値段が下がることを逆ザヤと言います。
だから、下がりそうか上がりそうかをデータから分析し手を打つのが先物取引という仕掛けです。
穀物の生産報告が発表されたりすると、市場は動きます。
鼻が利く人間なら、逆ザヤになりそうな債券はすぐ売りとばし、順ザヤになりそうなものを買いあさります。
さて、薬品の世界ではこういうことになります。
売値は、薬価基準というものがありまして、法的に値段が決められます。
その値段で取引をしなければいけないのです。
薬品会社では卸会社にいくらで売るかは決められていません。
普通は売値よりも安い値段で納入するでしょうね。それが順ザヤです。
ところが諸事情あってそれより高い値段でないと出荷できないことがあります。
製造原価のためですね。これが逆ザヤです。
なぜこんなことがおきるかをご説明します。
熱を出したり鼻水がでたり頭痛がする症状、というのは一人の人間が1年暮らしたら1度か2度は起きる可能性があることです。
だったら、ニーズは大変にあるものです。
アセトアミノフェンだとか塩化リゾチームを使った薬は大量に処方されるでしょうね。
風邪にも効くし打撲にも効果があります。
だったら、こういう薬は非常に大量に作っておいて大丈夫です。
工場は高稼働できますし、出荷単位の製造原価は低くなります。
当然順ザヤになります。
水溶性たんぱくが不活性化しないように制御し、眼球の白濁化を阻止するというピレノキシンと言う薬があります。
そこそこ薄くして使います。
どう考えてもこれは白内障予防薬であって、高齢であっても白内障になる人は数割です。
そして、直すという特効薬でもない。
あんまり風邪薬みたいに大量には作れません。
でも薬価は決まっています。
だったら、逆ザヤになってしまうわけです。
数十万人にひとりでるくらいの症状に対する薬なんかは、必要にはちがいないけど、工場をフル稼働して製造するまでには至りません。
相当な逆ザヤになるはずです。
薬価基準というのは、薬が健康保険の対象になりますから統制して管理するための厚生労働省の考え方です。
エボラ出血熱の騒ぎで、別の症状用の薬が効くのではないかという話が出て富士フィルム系の会社が株価をあげました。
これはその薬が、薬としても順ザヤになりそうで、先物取引としても順ザヤだろうとみなされたからです。
なお、サヤは鞘という漢字だと思う人が多いのですけど、差也です。つまり入と出の差でありますということです。
原発もんじゅの事故処理について [品質]
もんじゅの監視カメラが1/3故障のまま放置と言う話ですが、気を付けたいことがあります。
原子力発電なので、否定したい、という意識が前に出ると、肝心なことを見ない可能性があるということです。
ツイッターなんかではそういう、まあ感情的な意見が飛び交っています。
そして、廃炉にせよ、とか税金の無駄遣い、という方向にどんどん拡散しています。
これだと、本質的なことを見失ったままの否定演説にしかなりません。
問題は、
・点検をしているのか、
・事故発見をデータとして取っているか、
・対処処理を検討した資料が残されているか、
・処理方針通りに実行した結果をとり再試験しているか
ということにあります。
この話は北海道のJRの路線管理でも全く同じことなんです。
あちらは、脱線したりはしましたけど、死者がでたわけでないし、原子力でもないから、いい加減な企業体だ無能だという程度で噂がやむのです。
これが問題です。
牛乳を作る場合でも、あんころ餅を作る場合でも全く同じことなんです。
賞味期限が問題のあんころ餅を冷凍しておいて、日付を違えた印刷をして売る、処分品はなかったことにする、というのを原子炉に置き換えて考えたら全く同じ話だと分かります。
一番の問題は、「なかったことにしよう」の感覚です。
あったら叱られるから隠そう。これは小学生が悪い点数の答案をこっそり机の中に隠し、親に見せないという感覚と全く同じです。
発見をされなければ小言をくらうことはありません。
でも、そんなことを繰り返していたら成績は悪くなるし、三者面談かなにかで教師から強く言われることになります。
ソフト開発などの場合、バグを作ったとかまだ減らないと言ってプログラマを責める現場がまだまだあります。
責められるから、当人は、これは軽いものだから報告しないでおこう、とか、ケアレスミスだからバグでない、と自分に言い聞かせて報告をしないようになります。
これは当然、品質を悪くします。出荷後に対顧客で問題を引き起こします。
障害を発見してくれたら発見者をその数で褒めなければいけません。
発見してくれたら対処のしようがあり、それを記録することができます。バグをこしらえた人間はそれを改修したら、褒めなくていいけどご苦労さんです。
そうしないといけないのです。
これは原子力でも同じです。
だめだ、だめだ、だから否定だ、やめろつぶせ、ばかり周辺で言うと、担当者たちは、ものごとを隠そうという感覚になります。
発電所関係で、不穏な感じ、ゴリ押しで再開させようとたくらんでいる感じ、政界と癒着している疑い、みたいなものは、当人たちが隠そうとするから起きるのです。
全部のデータをオープンにする意識を、発電所側も電力のユーザー側もすべて共有して持たなければいけないのです。
間宮林蔵が幕府隠密という話から [仕事の管理]
間宮林蔵は、対露諜報係の隠密でした。もちろん幕府隠密です。
隠密が忍者のように考える人がいますが、スパイですね。
それはずっと日本人皆知っていたのではないでしょうか。
いつからみんな知るようになったですかね。
死んだのが天保年間ですから、開化後でしょうね。
日露戦争なんてあったころは意識的に英雄視したんだろうと思いますね。
明治時代に金田一京助が樺太(サハリン)まで乗り込んでアイヌ語の研究ができたのも、間宮林蔵のおかげです。
あの人がいなければ、この地域にそういう専従民族が居てどのように生活していたか、誰も記録しませんでした。
歴史がなくなっていたところだった。
ものごとはいろいろと絡んでいるものです。間宮林蔵と金田一京助はすぐに結びつかないでしょう。
伊能忠敬が日本全図を作ったとき、間宮林蔵が最後は手伝っていたという話が出てきました。
これで歴史がくつがえったというような表現をする人もいるようです。
一体何が問題なのでしょう。
伊能忠敬がたった一人で誰の手伝いもなくあれを実現したら英雄だけど、そうでないなら、ちょっとがっかり?
もちろん他人の成果を自分のものにしようとしたわけではないから苦言は言えるわけないというのはわかっている。でも・・・
私は驚きもしないけど、そのほうが変でしょうか。
もともと伊能忠敬ひとりで歩いても何もできない。
なぜかというと測量装置を設置して水平線を調整したりはひとりではできない。
必ず2人以上のメンバーでやったに決まってます。
こういう仕事は絶対ひとりではできません。
万が一、立てたポールを握りながら数メートルはなれたところのトランジットで覗き測量をひとりでするものがいたら、それは曲芸と言います。
伊能忠敬のカラダはひとつしかないのです。
まだ初心者のうちに測量した、未熟で出来栄えのよくない蝦夷付近を、スキルがあがってから構築した手法でやり直すのに最優秀の弟子およびその部下に頼んで当たりまえです。
パートナーも誰もいないでたった一人で仕事をすることを、金を払う幕府が指示するわけないじゃないでしょうか。
この騒ぎで思い出すことがあります。聞いてください。
アルベルト・アインシュタインが論文を書くとき、妻が計算を手伝っていたと言う話題が出たことがあります。
30年ちょっと昔だと記憶します。
このときは、伊能忠敬より極端で、失望したとか、あの天才がと思うとがっかりだ、という言葉をたくさんききました。
数学もできなかったのか、みたいな。あるいはカンニングをしたみたいな。
私は大学院で物理学をやったもので、彼の全集は拾い読みしてきています。
とりわけて驚きだったのは、ブラウン運動に関する論文です。
あの恐るべき数式の論理展開は裸足で逃げ出したくなりました。
これが、女房の手伝った仕事だと聞いた瞬間にほっとしました。
まっとうな人間だ、血の通う、と思ったのです。
あれだけの天才的発想をするのだから、数学ぐらい不得意で当然です。
天は二物を与えずといいます。あらゆる面で完璧なら、絶対に若死にします。
計算なんかしている暇に論文の構成を考えたほうが時間のムダにはなりません。
ファインマンも計算は嫌いだと公言していてこの人も私は好きだった。
計算が嫌いだからごまかしてしまう特技が「演算子法」です。
あの異常な形状のファインマン・ダイヤグラムの効果はすごかった。
もし計算が大好きな連中だけ集まっていたら、ラプラス変換も発明されずトランジスタの開発なんかできなかった可能性があります。
たったひとりでする仕事を何か価値のあるように考えるとすれば、それは、自分以外の誰かにすべての責任を持たせて思考を停止させる方向ではないでしょうか。
間宮林蔵に戻りますが、隠密もたった一人でやるイメージがありますが、そんなわけはありません。
諜報ですから、情報のトラフィックを励起しなければなりません。自分に聞こえてくるような仕組みをつくることが仕事です。
要するに、人間はひとりきりでは生きていけないのですね。
広島原爆資料館海外の反応 [ものの見方について]
この資料館の前で、日本人の反応はだいたい同じように見えます。
「原爆だめだー」「原爆は悪」「これを世の中からなくそう」みたいな日本人が多いように思います。
これらの感想を悪いとは言いません。もちろん反論はしません。
でも、根拠もあるでしょうが、
「決めつけ」
があるように感じます。絶対悪ということです。
そういう考え方をして、事態を見たがらない。
悲惨な写真が最近になって続々と出てきてあっと驚きますが、目を背けます。
見たら目に悪い、なぜなら悪だから。そういう感覚です。
だとすれば、この資料館に入っても入らなくても同じです。
これは原子力発電でも同じです。
放射線は悪いものだ。この世からなくすべきだ。
原子力発電なんかとんでもない。命をかけてなくしたい。
これも、絶対悪がそこにあると思うから言うことです。
原子力発電で電気が生産され、それが経済にどうかかわっているかという議論聞きたくもない。
なぜなら絶対悪だからそれのやることはすべてだめだ。
これは日本人の意識の持ち方の典型的パタンのようです。
聞く耳持ちたくない人に聞こえないことがあります。
アメリカがあの原爆を平和実現のために行使した正義の活動だと思っていることです。
あのまま日本を放置したら平和には障害だったと信じているひとが結構います。
手段としての原爆の良しあしよりも平和が大事だった、と。
そして、実際のところはスターリンが黙ることをしないと、あの共産国家が何をするかわからないということもあったわけで、結局平和のための選択だったと。
他の国はどう思っているか。
聞きまわったわけではないので、単純に結論づけませんが、泥沼化していた太平洋戦争を終結させる手段として完全に正しいとは言わないけど間違ってはいなかったのではないか、と。
実質、イスラエルのガザに対する行動を見たり、ブッシュ時代のアメリカが中東でやったことを知っていると、この感覚は全然変わっていません。
正義のためにはなんでもあり、という短絡です。「そもそも正義とはなんぞや」は踏みにじられます。
この前提でいるひとたちが外国にたくさんいます。
ただ、前提は前提として目の前にあるものを正しく理解しようという努力は、どうも日本人より優っているひとをたくさん見ます。
その人たちが原爆資料館を訪問した場合、反応は日本人とは違います。あ、外国人なんだ、と感じます。
日本人は、「絶対の悪の記録」としてみます。戦争が悪いんだ、すべてが間違いだ、とひとつらなりのこととしてみます。
というより、その判断のもとに、見ることを拒否しています、というべきでしょう。
外国人はどうも「このやりかたはやってはいけなかった」とみる人が多いようです。
例をひとつだけ。中国人でここを訪問した人の話でご紹介します。
中国の某都市で一晩飲み明かしてしましました。
かれは明確に「あれはやるべきでなかった」と言いました。
人間の影が壁に焼き付いていること、形も残らない消滅をした人のこと、はちきれるような死に方をした人、内臓を放出しての死体、を彼は正確に覚えていて復習しました。
それは事実としてたんたんと話し、自分が何と何を見て判断したかを明確にした上、あれをやってはいけなかった、と結論づけました。
あれをやった国が悪だとも言わないし、原爆を撲滅しようとも言いませんでした。
日本軍を滅ぼす、というのは目的としては、いいのです。しかし原爆でやるべきではなかったのです。そう考えるようです。
発明してしまった以上、ないことにはもうできません。
ある前提でどうつきあっていくべきか、が求められます。そういう考え方です。
こういうのは見習うべきではないかと思います。
体外受精 自閉症リスク [報告のありかた]
夫でなくその父親の精子で体外受精をしたという話題がありました。
遺伝子としては完全な他人よりも身内です。
対外受精ですから、不倫でもなんでもありませんね。
でもなんか、そちら系の複雑な感想を持つ人がいるみたいです。
祖父でなくとも、対外受精というのはごく普通の受胎が困難な夫婦で試みるものです。
そのために、精子は小さな試験官のようなところに退避されています。
卵子でも冷凍保存になっている場合もあります。
やや生命力が落ちていると思われます。
そうすると、受精が成立したとして、期待される生命活動になっていない危険性があります。
それが、知的障害のような事態を引き起こすのではないか、と医学関係者は考えたわけです。
そういう調査をしているようです。イギリス・スウェーデン・米国が主となって。
で、ここで注意したいのは、心配されているだけだということです。
いまのところ自閉症との相関は認めらなくて、人口10万人あたりの知的障害発症率が18%高まることが統計的に認められるだけです。
ということは、直接関係はほとんどない。
体外受精でなくても、弱った父親の精子だとか、力のない卵子で受精がなされると障害のある子供ができる可能性はあります。
そういうカップルを集めて同じ調査をすると、知的障害発生率はこの数字よりかなり大きいのです。
統計をどう把握するか、というセンスの問題になります。何を合計して何と比較するか、です。18%高まるというのは何のデータと比較してか、というのが最重要だとおもいませんか。
数字で面喰ってわけのわからない判断をしないように。
こういう話のときにいつも困るのは、差別とか責任放棄とかになる発想が必ず起きることです。
あのとき父さんが酔っぱらっていたからお前みたいな出来の悪い息子ができたのよ、というのは親は冗談でいったとしても当人はひどく傷つきます。
それと近いことが話題にでてしまいがちなんです。
中国大返し 嘘? [ものの見方について]
中国大返しが嘘だという話があります。
信長暗殺を即知りえて、あっという間に毛利をだまして切腹服従させ、仇討をにおわせて他の武将を味方につけ、兵隊に十分食料を与えながらあっという間に京に戻り仇討をする。
これはあまりにも手間が良すぎておかしい。
普通いろいろ思いもよらないことがおきてそれを片付けながらやったのでないなら、幸運が重なりすぎておかしい。
その感想は自然だと思います。
これを考えてみたいと思います。
確かに、あたかもシナリオ通りに進んだようにしか見えません。やらせにしか見えないと言えばその通りなんです。
今の政権のトップが嘘をいっている疑獄の話ではありません。歴史的にそういうことがあったという話なんです。
だから、角度を変えてみてみませんか。
そもそも秀吉エピソードはそんなことだらけではないでしょうか。
彼は一夜城をつくりました。美濃の斎藤と戦ったときです。
出来上がった素材を5万部品一気にあつめて組み立てたので、一種のプレハブをやったといわれています。
このときは蜂須賀小六の一党が陰で協力したのではありますけど。
姫路の英賀城攻撃時は水攻めでたおしました。食料を断ったので降参するしかない。
高松城も水攻めでした。
戦術が官兵衛だとかそういうことはどうでもいいです。
それと、具体的にどういう技法を使ったか、もどうでもいいとしましょう。
これらは全部太閤側の記述です。英雄の天才行動の経過として書かれたものです。
現実にどうだったというニュースドキュメンタリーのような報告ではありません。
発端があって、結果がある、ということを説明するのに何を書いたって自由でしょう、という本質にかかわることです。
母が太陽を飲んだ夢をみて、天下をとる子ができた、というのも、ハメてかまわないエピソードです。
それを嘘だというならそのほうが大人げない。
むしろ中国大返しのようなストーリーを思いつけて、それを事実の結果を説明する手段として構成できるのだとすれば、作者として天才ではないでしょうか。
いろいろぼろぼろいろいろな事故や予想はずれもあったけど結果を実現したら武将として天才です。
それを奇跡の重積のような神話に作り上げたとすれば作者として天才です。
事実の歴史がある以上、どういう説明であれ「嘘」ではないのです。
そういう見方をすると、気持ちが楽になりませんか。
そういうことではないでしょうか。
先っぽシンドローム [ものの見方について]
先っぽシンドローム、というのは、爪やまつ毛や、カラダの末端の部分に凝ることだという話です。
ネットをサーチしていると、ちょっと気に入らない説明が散見されます。
説明自体はこんな風になされていることがおおい。
・ある年代になると、女性は顔や外見で評価されなくなってくる。
・そこで、自分で見られて丁寧に細工のできる末端の手入れに神経がいくのである。
「見た目で勝負できないから」というような失礼きわまりないことをいっている人もいます。
違う見方を提案したいのでおつきあいください。
何か仕事でもしようというときは、末端的なことを無視しようとしてしまうのがありがちです。
一番大事なのはここだから、ここに不都合がないように、という考え方をするのが普通です。
この考え方の中には、末端の話は無視してくれよ、こんなにおおきいことと立ち向かっているから、と自分自身にごまかしをする気持ちが潜在しています。
姑の嫁いびりでよくある芝居のパタンは、障子の桟を指でなでて、こんなにほこりがたまっているというものです。
あるいは流し場で、こんなに野菜くずがたまっている、とか、パンの耳を簡単に捨てて、というような。
醤油さしの小皿にたっぷり残っていて、もったいない、というような文句もあります。
リンゴの皮を厚くむきすぎだ、とか。
これ、すべて末端的な話です。
ケチをつけるのには末端を扱うと非常に楽です。
神経のいきとどいていないところには大体何か不始末が隠れています。
さて、です。
その末端を丁寧に扱おうとしたとしたら、どういうことになるでしょうか。
末端に使っている神経は大事なものの扱いに反射しませんか。
爪を毎日磨いて調整している人が体は垢だらけで風呂にも入らないなんてあると思いますか。
そこまで極端でなくても、爪が管理できている人間が仕事ができない人だということがあると思われますか。
爪やまつ毛をきっちりしている人が不美人に見えると思いますか、です。
私が言いたいのは、細部に神経を行き届かせている人がちゃんとした仕事をしないことがあるわけがないという経験則です。
JASRACに申請しない話 [仕事の方法]
申請しないと煙が立ちます。
でも、もし音楽著作権料を要求しないなら、申請しなくてもいいのでは。
小西玲太朗という人がいます。
ネットビジネスのほうで有名な人ですけど、ミュージシャンです。
youtubeで探して聴いてみればわかりますが、大変な実力者です。
このひとが最近手をつけて、実現しようとしていることがあります。
全く対価を受けずにネットから配信する音楽というビジネスモデルです。
JASRACというものがありますけど、それには支障がでません。
有償で何かを販売するとき、その中のあるパーセンテージが著作者の取り分として徴収する、というのが音楽著作権行使です。
もしゼロ円でやられたら何%を掛け算してもゼロですから。
本来音楽は、聴いて同感する人が自分でも歌いだすもので、誰かが所有権を主張するものではないという発想です。
自分の作曲し自分が演奏した音楽を皆がダウンロードしプレイヤーで愛聴することを望みたい。
こういう話です。
普段itubeで音楽をダウンしている人だったら、それが無料になるなら天国だ、こうならなければいけないのだ、と思うでしょうね。
が、音楽で食べている人からいえば何をいうんだという可能性が高い。
きれいごとではないか、音楽家は霞を食って生きていればいいというのか、です。
コンサートをして人が来てくれるから食べていけるんだ。
楽譜を出版したら買ってくれる人がいるから生きられるのだ。
それが皆なくなったら死ねということになるではないか。
きれいごとで、お前はどうやって生きていくのか、でしょう。
ここで視点の転換なんですね。
本人はその発想は知らないかもしれないけど、別の人からみると「ジュガールの活用」です。
小西さんは、自分自身は音楽の無償提供で全然困っていない。ミュージシャンなのに。
かれはデザインスタジオ会社を持っていて、ネットビジネスのコンサル会社も持っていて、それらで数億の売上があります。
これ全部彼が1から作り上げたものです。まだ30前なのに。
金に困らなければ、音楽できれいごとが言えるのです。
もしスポンサーがいるなら、その人の好みだとか意見を聞かないと活動もできないけど、そんなものはいない。
自分の思う通りの自分のきれいごとを作り上げられるのです。
もし別の仕事をしていて、仮にそれが何かの販売だとしたら、あのミュージシャンの店で買いたい、という意思発生が起きます。
このことを彼は「アバターブランディング」と言っています。役割を持たせたキャラクターが信頼を受けるということです。
これがコンサルのテーマの一つになっています。
要するに、彼は無償で自分の音楽を提供することに全然困っていない。
しかも無償でやることで、他の活動にメリットを生んでいます。
もし、この発想を作曲家全員がもてたら、どうなるでしょうね。
お金に困らなければいい音楽をつくれない人もいるかもしれないから、なんともいえないでしょうか。
JASRAC 申請と事後 [制度の問題]
JASRACには、使用したい音楽について、演奏者やコンサート主催者が用紙に記入し申請します。
申請後、支払を行います。支払を確認して申請受理です。
申請受理後は、実際に実行したかどうかの事後報告の書式はありません。
しかし、著しく異なった行動がなされた場合は請求などの法的手続きが行われる場合があります。
詳しくは、JASRACのHPを参照いただけばよろしいです。
でもこの記事では、その申請と支払の根拠についてお話します。
JASRACは日本音楽著作権協会ですね。音楽を使用するときに課金する団体です。
なんか、音楽で金をゆすりとりにくる暴力団のように思う人が多いので、この由来を復習したほうがいいと思います。
JASRACの初代理事長はあの芥川也寸志さんでした。
この人は大正14年1925年生まれなので、年齢は昭和の年号と同じです。
昭和2年に父親が自殺しました。つまり2歳のときです。
大作家の息子だというような尊敬の形をとった差別にさらされる幼年時代が待っていました。
そして、家は大変お金にこまったらしいのですね。
本人が死んでしまったから、印税をろくにはらってくれない。
著作権法は昭和14年に成立しました。
それ以前は大作家であろうとも生きていなければどうにもならない。
出版社は、売れる本を書いてくれたら、また書いてくれるだろうと言う期待があるから印税を届けにきたのです。
門の前にいるブルドッグに餌をやりに来たのと同じ感覚です。
いなくなったらお金が惜しいのです。
それを著作権法が昭和14年以後保護するようになりました。
これを少年時代青年時代の芥川也寸志は見ていた。
そしてこういうことをしなければ芸術家は活動もできなければ家族の安心もないと思った。
で、JASRAC日本音楽著作権協会では、作曲家も作家や画家工芸家に準じて権利があると強く主張するようになったのです。
西洋の音楽家は、王侯貴族にやとわれて教会付きの仕事をもらい生活していました。
どちらかというとプレイヤーとして雇われ、ご祝儀仕事で作曲もしていた。ここで一応ごはんが食べられた。
当人が死んでも作曲した楽譜は貴族が自分のものにして遺族に金をはらったり、遺族を別の立場で雇ったりしました。
民主主義でそういう世界がなりたたなくなると、スポンサーが居てそこに雇われる形に移行しましたが、スポンサーもお金は惜しい。
本業と直結しない、バレーボールチームだとか、オーケストラは廃止されることがあります。
どんな高尚なことをしていると思おうが、食べていかなければ何もできないのです。
一般民衆に雇われて仕事をするには、プレイヤーの前に帽子をさかさまにおいておき、そこにお金をいれてもらいたい。
その音楽が、レコードだとかCDであるなら、帽子をとりにいくわけにいかないから、お値段の中に取り分を配分してほしい。
それが、音楽著作権です。
この話は、間違った言い分ではないと思います。きょう食べていければ明日も音楽を奏でられます。
楽譜とかレコードという話だと、一応そこにモノはありますから、複製したらお金を払えというのはわかりやすいです。
それが電子データになった上、形が全くない状態でクラウドで提供されると、複製数も消費度合もわからなくなる。
でも、それをされるとCDは売れなくなる。
CDの消費に準じて課金したい、というのが最近のJASRACの言い分です。
でも、もうクラウドに対しては人は山から湧き出してくる沢のような、一方的にくみ取ってかまわないものだと思うのですね。
体を使って楽器を演奏したのは1回だけで、苦労はそのときだけじゃないか。作曲の苦労も1回だけじゃないか。
ここで音楽の提供者と消費者に大きな齟齬が生まれているのです。
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